🕊️死にネタです。鬱展開注意。
彼女は静かにこう言った。
「ねえ、ディノ。私は最後に伴侶に呪いをかけます」
掠れた声、光の入らない瞳。
寿命の擦り切れた人間は、徐々に小さくなって、そして。
光を失い、音を失い、声を失い、そして命を失うのだという。
ではこれは彼女の最後なのだろうか。
いやだ、いやだと心が叫んでいる。今までネアが傍にいて、色や模様を教えてくれたこの心が叫んでいる。
「ネア………ネア、欲しいものはないかい?」
ああ、彼女がこちらを気遣ってくれているのがわかる。遺してゆくものへの愛惜も、彼女が教えてくれた。
けれど、自分が置いていかれるなど思ってもいなかったのだ。
なのになぜ、彼女は失われなくてはならないのか。
「そう、ですね……では、一つ。呪いをかけるといいましたが、私の可動域はとても上品で」
それだけしか話していないのに、苦しげに息を切らして。僅かにしか動かせない手をそっとこちらに向ける。
指先に触れれば、目元が微笑むのが見えた。
「実際には、呪いなどかけられはしないのでしょう。ですが、ディノ」
もう室温と同じ程の温もりしかない指先は、握り込むととても細かった。
どうにかして、彼女の命を繋ぎたい。まだ置いていかないで欲しい。懸命に繋ぎ止める術を探しているのに。
「私の呪いはこうです。……ディノは、崩壊も狂乱もしません。時間はかかっても、また微笑む事が出来るようになります……けふん」
「ご主人様……」
息を整える間にも、零れ落ちる命の残り時間。
身体の内側に巣食い、魂までも食われゆく呪いを受けたのは、祟り物の討伐を終えた帰り道ででもあったのだろうか。何も異常はないと思っていたし、アルテアも、ノアベルトも同様に問題はないと言っていたのだ。
けれど工房中毒のような症状が出始め、アルテアの薬湯で効果がなかったので慌ててウィリアムに連絡を取り、リーエンベルクへ寄ってもらい、そこでネアの体内に巣食う終焉を発見したのだった。
引き剥がそうにも、体内から喰われるというその状況では引き剥がした端から修復をしなければならないが、実際に取り掛かってみれば、引き剥がした場所から剥がれ落ちた破片が僅かに残っていたその呪いは再度体内から侵食を始めてしまい、どうにも全ては剥がしきれなかったのだった。
それを伝えると、ネアは以前住んでいた世界にも、そのような病気はあったのだと言う。
何度病巣を取り去っても、血液に紛れ込んだ病が、体のあちこちから再び芽吹くのだと。
転属を進めても、間に合わないかもしれない。間に合っても、人間以外になったらネアはネアで無くなってしまうのだろう、彼女もそう言った。そこに怖れを抱いている間にも、病は彼女の体内を食い荒らしていったのだ。
「それから……また楽しい事を見つけられますし、ウィリアムさんや、アルテアさん、ノアとも仲良くおしゃべりするのです」
枕元に集う魔物たちのそれぞれが、静かに見守っている。
ネアの、終末へ向かう吐息の一つ一つを。瞬きの一つを。
「ええ。本当なら……こんな病気など、踏み滅ぼしてくしゃぼろにしてやるべきなのでしょう」
ただ静かに、ほろりほろりと花びらの散るように。ネアの命が散り行くのは、とても怖かった。
「ですが……いつかはくる、そういうものなのです。だから……」
ウィリアムが震える拳を握り込む。アルテアは眉間の皺を深くし、けれど視線を外さずに。
ノアベルトはただ震え、ディノの服にそっと触れて。
「ネア……ご主人様……」
「この、呪いを……受け入れてくださいね?」
欲しいもの、と聞いてそう答えられた。ネアは死に行く自分の事よりも、遺される魔物の事を考えてくれているのだ。
「くそ……いっそここで殺してやれば……」
「貴方に出来ますか、アルテア?」
「……アルテアにも、ウィリアムにも、僕にも……シルにだってできやしないと思うよ……例え恨まれたりしなくても」
いつもなら、ここで助けの手が入るのだ。今度だって入ってくれるはずなのに。入ってくれなくてはおかしいのではないだろうか。
誰しもがそう思う中、ネアの最後の吐息が零れ、僅かな魔術の壊れる音がした。
「ああ」
誰の嘆息だっただろうか。崩壊を止められ、狂乱も出来ず、ただ見ているしか出来ない。自分が力ある存在だったのは、気のせいだったのだろうか。万象、と呼ばれ無尽蔵の魔術を手にしていても、欲しいものは手から零れ落ちた。
その日、空は動きを止めた。
「……シルハーン」
優しい声だ。気遣ってくれているのだろう。
「……私は大丈夫だよ、グレアム。ネアがそう願ってくれたからね」
隣に彼女がいなくても。彼女の見つけてくれた、小さな光が周囲にあると気付いたのは、いつだったろうか。
リーエンベルクのあの部屋は、ネアの亡骸を含めて万象の祝福結晶で固め、封印をしてある。
劣化もせず、未来永劫損なわれないままに。
そうなると、もう次の世界というものはないのかもしれない。
ふと、シルハーンはそう思い至る。
ネアが望んだように、崩壊せず、狂乱せず、小さな楽しみに微笑みながら。死ねないままに。
けれど、それが彼女の望みならば。